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「 宮平望のホームルーム 」

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「研究紹介」

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「原罪と良心」

 

0.四つの世界(天地創造後、ノアの大洪水後、イエスの神の王国後、終末の新天地後)

1.第一の原罪(神によって禁止されていることを犯す罪)

2.第二の原罪(神によって許可されていることを貪る罪)

3.第三の原罪(神によって啓示されていることを拒む罪)

4.第四の原罪(神によって完成されていることを壊す罪)

5.四つの原罪

6.原罪と原恵

・エデンの園での男女の失態

・ブドウの園でのノアの失態

・ゲツセマネの園でのイエスの得態

・天の楽園での祝態

7.原罪と良心

・十戒における他人の所有物所望の禁止

・落穂拾い禁止における自分の一部の所有物所望の禁止

8.良心と学問 (拙著『ユーモア実践 人生を楽しむ7法則』[新教出版社, 2025],pp.93-95)

・学問も良心を伴わなければ無価値である。

Science is nought worth without conscience.

・良心は学問を内包し、学問は良心を結論付ける。

Conscience includes science; science concludes conscience.

・良心は学問を完成させ、学問は良心を補完する。

Conscience completes science; science complements conscience.

 

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聖書は少なくとも四つの世界を示している。それらは時系列に沿って記すと、天地創造とその後の世界、ノアの時代の洪水とその後の世界、イエスによる神の王国の開始とその後の世界、終末における新天地の完成とその後の世界である。これらの四つの世界における一定の人間がとる行動の特徴に焦点を当てると、ある世界観が明白になる。

 

1.第一の原罪(神によって禁止されていることを犯す罪)

神はエデンの園の中央に命の木と善悪の知識の木を生えさせ、命の木ではなく善悪の知識の木から食べることを人に禁じたが、人から造られた女は蛇に唆されて善悪の知識の木の実を食べ、その男も女から渡された実を食べると、二人は自分たちが裸であることを知り、イチジクの葉で腰を覆った(創世2:8-9,16-17,3:2-7)。神は蛇を呪い、女の子孫が蛇の頭を砕くと宣言し、男とその妻に皮の衣を作って着せて、二人を園から追放し、命の木に至る道を守った(創世3:14-15,21-24)。

この出来事の特徴は、神が原初に創造した新しい世界において、人が神によって禁止されていることを犯し、自らの裸を恥じるというものである。一般にこのような罪は原罪と呼ばれているが、以下の三つの原罪との関係で、ここではこれを第一の原罪と呼ぶ(F,1巻,51頁)。

 

2.第二の原罪(神によって許可されていることを貪る罪)

神は地上の悪の蔓延のゆえに、人々を大地もろとも呪って滅ぼし、神と共に歩むノアとその家族を箱舟によって救ったが、ノアはブドウ園の農夫となり、ブドウ酒を飲んで天幕で泥酔し、裸でいるところを息子の1人ハムに見られ、こうしてハムの子孫を呪った(創世6:5,9-13,8:16-21,9:20-27)。

ここでの特徴は、神が大洪水によって滅ぼした後の新しい世界において、ノアが神によって許可されていることを貪り、自らの裸を恥じるというものである。この罪を、新しい世界で失態を犯して裸を恥じるという上記の原罪、第一の原罪との対応関係で、第二の原罪と呼ぶ(F,1巻,51頁)。

 

3.第三の原罪(神によって啓示されていることを拒む罪)

イエスは、この世の栄光あるすべての王国とは異なる天の王国、神の王国という新しい世界を開始し、人々に回心を命じたが(マタ4:8,17,マル1:15)、被造物については、「神の前で明らかでない被造物はなく、神の目にはすべてのものが裸であり、さらけ出されています」と説かれており(ヘブ4:13, cf.ヘブ10:2,225; C,10巻,89f.)、特に人間に関しては、「あなたは、『私は豊かであり、豊かになった。必要なものはない』と言うが、あなたは、自分自身がみじめで、哀れで、貧しく、目が見えず、裸であることを知らない。私はあなたに相談をする。あなたが豊かになるために、火によって精錬された金を、あなたの裸の恥が明らかにされないために、身にまとう白い服を、あなたが見えるようになるために、あなたの目に塗り込む目[の]薬を私から買いなさい」、「見よ、私は盗人のように来る。裸で歩いて、そのみっともない姿を人々が見ることがないように、目を覚まし、服を着こなしている人は、幸いである」と警告されている(黙示3:17-18,16:15, cf.C,12巻,70f.,218f.頁)。

ヨハネの黙示録のこれらの言葉の実質的な話者は、「アーメンである方、証人、忠実な方、真の方、神の被造物の源である方」、終末に盗人のように来るイエスであり(黙示3:14, cf.テサ一5:2,4,ペト二3:10,黙示3:3)、このイエス自身は、子羊の毛が衣となるように救いの衣となる(箴言27:26,ヨハ1:29,36,ロマ13:14,コリ一15:53-54,ガラ3:27,エフ4:24,コロ3:10-12, cf.マタ25:36,38)。

ここでの特徴は、イエスが開始した新しい世界において、人々が神の子イエスによって啓示されていることを拒み、自らの裸を恥じるというものである。この罪を、新しい世界で失態を犯して裸を恥じるという第一の原罪と第二の原罪との対応関係で第三の原罪と呼ぶ(F,3巻,214頁)。

 

4.第四の原罪(神によって完成されていることを壊す罪)

神は終末において、新しい天地を再創造し、「聖なる都、新しいエルサレムが、自分の夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のもとから、天の中から下りて来る」時、去って行く地の「汚れごとや憎むべきことや偽り」という第三の原罪は継続されているものの(黙示21:2,27, cf.黙示21:1,8,22:11,14-15,17)、この新しいエルサレムの都で罪を犯すことのできる人は存在せず、新天地を破壊することのできる人も物も聖書には記録されていない。

ここでの特徴は、神が再創造した新天地の新都という新しい世界において、人は神によって完成されていることを壊し、自らの裸を恥じることはないというものである。この点に関して、新都エルサレムが裸とは対蹠的な着飾られた花嫁として登場するという情景は象徴的である。仮に、人が神によって完成されていることを壊し、自らの裸を恥じるなら、この罪を、新しい世界で失態を犯して裸を恥じるという第一の原罪と第二の原罪と第三の原罪との対応関係で第四の原罪と呼ぶことができるが、これは聖書において不可能とされている。

 

5.四つの原罪

第一の原罪の出来事に登場する命の木は、第三の原罪で裸となった罪人の1人のように裸にされて十字架に掛けられたイエスの十字架の木を予兆しており(F,1巻,33頁)、この十字架上での死の後に復活したイエスを信じる人は永遠の命に至る(ヨハ3:14-15,6:40,54,19:23-24,ヨハ一5:20)。他方、第一の原罪に登場する善悪の知識の木は、一方で、第三の原罪で裸となった罪人にふさわしく、イエスの十字架の隣の十字架に同様にして裸にされて掛けられた悪人2人のうちの1人、つまり、イエスの善に関する知識を持っていて、最後にイエスは何も悪いことをしていないと告白した人の十字架の木と、他方、もう1人の悪人、つまり、イエスの善ではなくこの世の悪を知り尽くして、悪に関する知識のみを持ったまま善人イエスを罵った人の十字架の木を予兆している(ルカ23:32-43, cf.F,1巻,34頁)。

第一の原罪発生前に神が、園の命の木を含むすべての木から食べることを命じ、ただし善悪の知識の木からは食べはならないと命じたのは(創世2:16-17)、永遠の命をもたらす十字架のイエスを救い主として受け入れなければならないが、イエスの善を知っていて最後にそれを告白した悪人や、悪を知り尽くして最後まで悪を貫いた悪人には、人々を永遠の命に至らせる救いの力がないため、彼らのような悪人を受け入れてはならないし、彼らのようになってはならないという命令を予兆している(F,1巻,34頁)。

神によって許可されていることを貪るという第二の原罪が禁止されなければならないことは、畑の実りを刈り尽くさず、落穂を拾い集めずに貧者や寄留者のために残さなければならず、ブドウの実についても同様であるという規定において具体化されている(レビ19:9-10, cf.レビ23:22,申命24:19-22,ルツ2:15-16,マタ12:1-8; F,1巻,175頁)。ここで、本来自分の物であるはずの物も究極的には神に属する物として、神に属する弱い人々のために残すことが命じられている。第三の原罪に満ちたこの世の王国の中にありつつも神の王国に属する人々は、イエスというブドウの木に結び付くことでイエスの弟子となってその実を結ぶ(ヨハ15:1-10)。

アダムによる第一の原罪は最後のアダムであるイエスによって許される機会があり(コリ一15:22,45, cf.ロマ5:12-21)、ノアによる第二の原罪以前に不従順だった人々の捕らわれの霊でさえ霊におけるキリストの説教を聞く機会があり(ペト一3:19-20, cf.ペト二2:5)、人々による第三の原罪は、「人の子に逆らう言葉を語る人は、許されるだろう」とあるように許される機会があるが(マタ12:32)、第四の原罪の不可能性は、「聖霊に逆らって語る人は、この時代でも来りつつある時代でも許されないだろう」という人の子イエス自身の言葉と対応している(マタ12:32)。

ここで、「許す(アフィエーミ)」という語には、ある出来事がこれから発生することを許す(permit)という意味と(マタ3:15[受洗の許可],7:4[木くず取り出しの許可]他)、ある出来事がかつて発生したことを許す(forgive)という意味がある(マタ6:12[負い目の赦免],9:2[罪の赦免]他)。具体的に肉体をまとった人の子イエスに対する冒涜は、ある意味でその発生が許可されており、実際に発生しても赦免されうるが、具体的に肉体をまとわない神秘的な慰め主である聖霊に対する冒涜は、その発生が許可されておらず、仮に発生したなら赦免されないが、発生自体が不可能であるため、聖霊に対する冒涜への断罪も発生不可能である(C,1巻,267f.頁)。

 

6.原罪と原恵

本論において、原罪は新しい世界における原初の罪という意味であり、第一の原罪と第二の原罪はアダムとノアという最初の個人に遡及できる原点が存在することから原罪と言えるが、第三の原罪の原点は不特定多数であることを考慮すると、むしろ線であり、第四の原罪は存在しないゼロである。そして、第二の原罪は第一の原罪を含み、第三の原罪は第一の原罪と第二の原罪を含むとすると、伝統的に原罪と言われてきた第一の原罪は、このように広範囲の文脈の中で把握することができる。

さらに、第一の原罪以前には、神による「産めよ、増えよ」という祝福があり(創世1:28)、第二の原罪の前にも同じ祝福があったことは(創世9:1)、人による原罪(original sin)よりも神による原恵(original grace)の方が、よりオリジナルな根源的な出来事であることが明白であり、第三の原罪と並行してイエスによる五千人と四千人の給食という言わば「増えよ」の祝福があることも(マタ14:13-21,15:32-39, cf.B,2巻,22-27頁)、原恵の継続を示している。

また、エデンの園でのアダムの失態とブドウ園でのノアの失態とそれらの結末は(創世2:8,3:24,9:20)、ゲツセマネの園で祈るイエスによる得態によって決定的に克服される出来事となり(マタ26:36,ルカ12:15, cf.ロマ1:29,コリ一5:10-11,6:10,エフ4:19,5:3,5,コロ3:5,ペト二2:3,14; F,1巻,34f.頁)、イエスの送る聖霊の働きと相俟って天の楽園では神の恩恵が人の原罪を完全に駆逐するため(ルカ23:43,黙示21:22-22:5, cf.ヨハ14:16-17,26,15:26,16:7,13,20:22)、究極的に原恵は終恵に至るまで原罪を凌駕している(cf.A,1巻,137-195頁)。

これらの歴史を完遂しているのはヤハウェである。ヤハウェの神聖四文字から気息音を省いて互換性のある「一点一画」(マタ5:18)のヨッドとウァウをウァウに代表させると継続を意味する「そして(ウァウ)」になり、ウァウ継続において未完了が完了に、完了が未完了になるように、例えば未完了の預言が完了した出来事となり、完了の預言が未完了の出来事として示されることは、ヤハウェが歴史を支配していることの実現である(F,1巻,112)。

 

7.原罪と良心

四つの原罪から発生不可能な第四の原罪を除いた三つの原罪における恥の発生は、直接的には恥じる罪人の良心によるものだとすると(cf.ロマ2:14-15; C,6巻,45f.頁)、原罪を良心の観点から考察することができる。

第三の原罪に対してイエスが予期的に回心を命じ、第一の原罪に対しては例えば十戒において偶像礼拝や神冒涜の禁止、また殺人や姦淫、窃盗や偽証の禁止、さらに隣人の所有物所望の禁止という形で禁止事項が明示され(出エ20:3-7,13-17)、第二の原罪に対しては具体的に落穂拾い禁止が命じられるが、特にこの落穂拾い禁止規定からが良心の問題を検討し易い。

落穂拾い禁止は、自分の土地の物であれ自分で収穫した物であれ、落としたり置き忘れたりしたものを貧者や寄留者のために放置しておく規定であり、言わば自分のものになるはずのものを一部敢えて他者のために譲るという良心の実践である。十戒では他人の所有物所望の禁止が説かれたが、落穂拾い禁止は言わば自分の一部の所有物所望の禁止であり、これは貪欲の禁止規定でもある。ノアが自分のブドウ園からの産物を過剰に摂取して失態を招いたことは、自分の物であってもそれに対する権利を自らの良心に基づいて謙抑する必要を教示している。そして、この良心は、すべてのものが本来的には自分のものではなく神のものであり、神のものとされている貧者や寄留者も神のものであるという意識に由来する(cf.申命24:22,マタ25:40,45)。献金や献品の趣旨はここにもあり(cf.マラ3:10,使徒24:16-17)、ボランティアやエコロジーの運動にも繋がる精神である。

 

8.良心と学問

良心が自己の権利の一部を他者のために善用することであるという視点に基づくと、それは自己の自由の積極的抑制であり、自由と良心の均衡が問題となり、自由を行使する学問と良心の問題も同様にして重要になる。学問と良心について次のような諺がある(三省堂編修所『故事ことわざ・慣用句』[三省堂,1997],844頁; G,2巻,93-95頁)。

 

・学問も良心を伴わなければ無価値である。

Science is nought worth without conscience.

・良心は学問を内包し、学問は良心を結論付ける。

Conscience includes science; science concludes conscience.

・良心は学問を完成させ、学問は良心を補完する。

Conscience completes science; science complements conscience.

 

こうした学問と良心の相即関係は、地上から天へと上ろうとしたライト兄弟が、19世紀後半からの飛行機製作競争の中で安息日を遵守しつつ思索と実験を繰り返して動力飛行を実現したことや、天国を地上に下ろそうとしたウォルト・ディズニーが、遊園地巡検や動物解剖などに基づいて映像や遊園地を創作し、特に遊園地設立においては来園者の気付きにくい微細な点に至るまで精緻を尽くしたことにも見られる(D,1巻,30f.,125,135f.,140f.頁; E,56頁)。

 

※ 拙著文献表略記と識別記号(Website「宮平望のホームルーム」の「研究紹介」参照)

・A = <21世紀日本のキリスト教>シリーズ, 1-3巻

・B = <ゴスペル>シリーズ, 1-5巻

・C = <新約聖書 私訳と解説>シリーズ, 1-12巻

・D = <ディズニー研究>シリーズ, 1-2巻

・E = 『エアライン入門 逆風で飛翔する両翼』

・F = <旧約聖書 要約と概説>シリーズ, 1-4巻

・G = <ユーモア>シリーズ, 1-2巻

著書=Aは専門書、Gは一般書、Iは入門書です。
・『神の和の神学へ向けて  三位一体から三間一和の神論へ』(すぐ書房, 1997/新教出版社, 2017)A
・ Towards a Theology of the Concord of God  A Japanese Perspective on the Trinity, (Carlisle, Cumbria: Paternoster, 2000)A
・『責任を取り、意味を与える神 21世紀日本のキリスト教1』(一麦出版社, 2000)G
・『苦難を担い、救いへ導く神 21世紀日本のキリスト教2』(一麦出版社, 2003)G
・『戦争を鎮め、平和を築く神 21世紀日本のキリスト教3』(一麦出版社, 2005)G
・『現代アメリカ神学思想 平和・人権・環境の理念』(新教出版社, 2004/増補新版2018)A
・『ゴスペルエッセンス 君に贈る5つの話』(新教出版社, 2004)I
・『ゴスペルフォーラム 君に贈る5つの話』(新教出版社, 2007)I
・『ゴスペルスピリット 君に贈る5つの話』(新教出版社, 2008)I
・『ゴスペルハーモニー 君に贈る5つの話』(新教出版社, 2019)I

・『ゴスペルジャーニー 君に贈る5つの話』(新教出版社, 2021)I

・『神の和の神学入門 21世紀日本の神学』(新教出版社, 2005)I
・『マタイによる福音書 私訳と解説』(新教出版社, 2006)G
・『マルコによる福音書 私訳と解説』(新教出版社, 2008)G
・『ルカによる福音書 私訳と解説』(新教出版社, 2009)G
・『ヨハネによる福音書 私訳と解説』(新教出版社, 2010)G
・『使徒言行録 私訳と解説』(新教出版社, 2011)G
・『ローマ人への手紙 私訳と解説』(新教出版社, 2011)G
・『コリント人への手紙 私訳と解説』(新教出版社, 2012)G
・『ガラテヤ人・エフェソ人・フィリピ人・コロサイ人への手紙 私訳と解説』(新教出版社, 2013)G
・『テサロニケ人・テモテ・テトス・フィレモンへの手紙 私訳と解説』(新教出版社, 2014)G
・『ヘブライ人への手紙 私訳と解説』(新教出版社, 2014)G
・『ヤコブ・ペトロ・ヨハネ・ユダの手紙 私訳と解説』(新教出版社, 2015)G
・『ヨハネの黙示録 私訳と解説』(新教出版社, 2015)G
・『ジョン・マクマレー研究 キリスト教と政治・社会・宗教』(新教出版社, 2017)A 

・『ディズニーランド研究 世俗化された天国への巡礼』(新教出版社, 2019)G

・『ディズニー変形譚研究 世俗化された福音への信仰』(新教出版社, 2020)G

​・『エアライン入門 逆風で飛翔する両翼』(大学教育出版, 2021)G

・『旧約聖書 律法書 要約と概説』(新教出版社, 2021)G

・『旧約聖書 歴史書 要約と概説』(新教出版社, 2022)G

・『旧約聖書 文学書 要約と概説』(新教出版社, 2023)G

・『旧約聖書 預言書 要約と概説』(新教出版社, 2024)G

・『ユーモア入門 人生を楽しむ7法則』(新教出版社, 2025)G

・『ユーモア実践 人生を楽しむ7法則』(新教出版社, 2025)I

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

論文=
・「ノヴァティアヌスとキプリアヌスにおける『和』の概念―『三位一体論』と『公同教会一致論』を中心として」土肥昭夫教授退職記念論文集編集委員会編『キリスト教と歴史』(新教出版社, 1997)
・‘Japanese Protestantism to the present day,’ McGrath, A. E. & Marks, D.(eds.), Blackwell Companion to Protestantism, (Oxford: Blackwell Publishing, 2004)
・「ケンブリッジ研究滞在ノート」『西南学院大学 国際文化論集 第19巻 第1号』(西南学院大学学術研究所, 2004)
・「現代学生気質 学生伝道のための参考資料」『西南学院大学 国際文化論集 第21巻 第1号』(西南学院大学学術研究所, 2006)
・‘Christian Theology under Feudalism, Nationalism and Democracy in Japan,’Kim, Sebastian C. H.(ed.), Christian Theology in Asia, (Cambridge: Cambridge University Press, 2008)= ‘Christian Theology under Feudalism, Nationalism and Democracy in Japan,’ Mark R. Mullins (ed.), Critical Readings on Christianity in Japan, (Leiden: Brill, 2015)

・「アメリカ・太平洋文化コースの理念」『西南学院大学 国際文化論集 第36巻 第2号』(西南学院大学学術研究所, 2022)= アメリカ・太平洋文化コースの理念 (seinan-gu.ac.jp)

 

訳書=
・クラス・ルーニア著『使徒信条の歴史と信仰』(いのちのことば社, 1992)
・ボブ・ハウツワールト著『繁栄という名の「偶像」』(いのちのことば社, 1993)
・ドナルド・ブローシュ著『キリスト教信仰 真の信仰をめざして』(一麦出版社, 1998)
・アーサー・F・ホームズ著『知と信の対話 キリスト教教育の理念』(一麦出版社, 1999)

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拙著・拙論の引用=
・ 古屋安雄「座談会 学界の過去と学会の未来」日本基督教学会編『日本の神学 41 神学年報2002』(教文館, 2002) 281頁
・ Stanley J. Grenz, Rediscovering The Triune God  The Trinity in Contemporary Theology, (Minneapolis, MN: Fortress Press, 2004) pp.2,225
・ 阿部仲麻呂『信仰の美學』(春風社, 2005) 433,569,580,581頁
・ Veli-Matti Karkkainen, The Trinity  Global Perspectives, (Louisville, KY: Westminster John Knox Press, 2007) p.314.
・ M. Kurasawa, ‘Japanese Theology,’ Veli-Matti Karkkainen, ‘Trinity, Triune God,’ William A. Dyrness and Veli-Matti Karkkainen (eds.), Global Dictionary of Theology  A Resource for the Worldwide Church, (Downers Grove, IL: IVP Academic, 2008) pp.432-434,910,912.
・ 松田和憲『現代日本の「宣教の神学」研究 宣教の神学 パラダイム転換を目指して』(関東学院大学出版会, 2010) 589-600頁 = 同志社大学大学院神学研究科へ提出された博士論文
・ Veli-Matti Karkkainen, Trinity and Revelation  A Constructive Christian Theology for the Pluralistic World  Volume 2, (Grand Rapids, MI: Wm. B. Eerdmans Publishing Co., 2014) p.303.
・ Gene L. Green, Stephen T. Pardue, and K.K. Yeo (ed.), The Trinity among the Nations: The Doctrine of God in the Majority World,  (Grand Rapids, MI: Wm. B. Eerdmans Publishing Co., 2015) pp.5,100,102,108-110,117-119.
・ Christian James Triebel, A Third Culture Kid Theology: Constructing Trinity, Christ, and Believers' Identity in Liminality in dialogue with Nozomu Miyahira, Emil Brunner, and Thomas F. Torrance, (Doctoral Thesis: Doctor of Philosophy, King's College London, University of London / Joyce, Paul, Supervisor, 2016) = ロンドン大学キングズ・コレッジへ提出された博士論文 https://kclpure.kcl.ac.uk/portal/en/theses/a-third-culture-kid-theology(40fa30e1-a646-4990-a2ff-029d946a2ccc).html Chapter 12  Nozomu Miyahira's Theology of 'Between,' pp.128-151, et al.

・ 芦名定道『現代神学の冒険 新しい海図を求めて』(新教出版社, 2020) 25,95頁

・D. Glenn Butner Jr., Trinitarian Dogmatics  Exploring the Grammar of the Christian Doctrine of God, (Grand Rapids, MI: Baker Academic, 2022), p.8.n.27,pp.119,130.

拙著に対する主な書評 (書評を書いてくださった先生方、本当にありがとうございます!)=
・宮平望『神の和の神学へ向けて 三位一体から三間一和の神論へ』(すぐ書房, 1997/10) 295頁
 →小原克博『福音と世界 1998/1 特集 礼拝』(新教出版社, 1998/1) 54-56頁
 →峰島旭雄『比較思想研究 第24号 1997』(比較思想学会, 1998/3) 102頁
 →小野寺功『宗教研究 第72巻 318 第3輯』(日本宗教学会, 1998/12) 130-136頁
 →小田垣雅也『日本の神学 39 神学年報2000』(教文館, 2000/10) 112-118頁
 →今井尚生『西南学院大学 国際文化論集 第15巻 第2号』(西南学院大学学術研究所, 2001/2) 299-304頁
・宮平望『責任を取り、意味を与える神 21世紀日本のキリスト教1』(一麦出版社, 2000/7) 198頁
 →松永希久夫『本のひろば 2000/10』(財団法人キリスト教文書センター, 2000/10) 14-15頁
 →伊藤悟『いちばく No.4 2001/1』(一麦出版社, 2001/1) 4-5頁
・宮平望『苦難を担い、救いへ導く神 21世紀日本のキリスト教2』(一麦出版社, 2003/10) 254頁
 →八木誠一『本のひろば 2004/5』(財団法人キリスト教文書センター, 2004/5) 18-19頁
 →栗林輝夫『いちばく No10 2004/5』(一麦出版社, 2004/5) 8-9頁
・宮平望『戦争を鎮め、平和を築く神 21世紀日本のキリスト教3』(一麦出版社, 2005) 240頁
 →木村公一『いちばく No15 2008/6』(一麦出版社, 2008/6) 4-5頁
・宮平望『現代アメリカ神学思想 平和・人権・環境の理念』(新教出版社, 2004/8) 313頁
 →星野靖二『国際宗教研究所レター 第44号(04-3)』(財団法人 国際宗教研究所, 2004/10) 19-21頁
 →森本あんり『本のひろば 2005/2』(財団法人キリスト教文書センター, 2005/2) 14-15頁
・宮平望『神の和の神学入門 21世紀日本の神学』(新教出版社, 2005/9) 97頁
 →西岡義行『本のひろば 2006/2』(財団法人キリスト教文書センター, 2006/2) 14-15頁
・宮平望『ゴスペルスピリット 君に贈る5つの話』(新教出版社, 2008/9) 114頁
 →宮田光雄『本のひろば 2008/11』(財団法人キリスト教文書センター, 2008/11) 28-29頁
・宮平望『マルコによる福音書 私訳と解説』(新教出版社, 2008/2) 413頁
 →伊藤明生『本のひろば 2008/6』(財団法人キリスト教文書センター, 2008/6) 4-5頁
・宮平望『ルカによる福音書 私訳と解説』(新教出版社, 2009/2) 717頁
 →山田耕太『本のひろば 2009/6』(財団法人キリスト教文書センター, 2009/6) 26-27頁
・宮平望『ヨハネによる福音書 私訳と解説』(新教出版社, 2010/2) 469頁
 →伊東寿泰『本のひろば 2010/7』(財団法人キリスト教文書センター, 2010/7) 26-27頁
 →小林稔『日本の神学 50 神学年報2011』(教文館, 2011/9) 125-128頁
・宮平望『新約注解 「私訳と解説」シリーズ』全十二巻(マタイによる福音書~ヨハネ黙示録、新教出版社、二〇〇六~二〇一五年)
 →川村輝典『日本の神学 55 神学年報2016』(教文館, 2016/9) 131-136頁

・宮平望『ジョン・マクマレー研究 キリスト教と政治・社会・宗教』(新教出版社, 2017/9) 232頁

 →鈴木正見『比較思想研究 第44号 2017』(比較思想学会, 2018/3) 198-199頁

 →岩城聰『日本の神学 57 神学年報2018』(教文館, 2018/9) 167-172頁

・宮平望『ディズニーランド研究 世俗化された天国への巡礼』(新教出版社, 2019/1) 261頁

 →赤羽優子『比較思想研究 第46号 2019』(比較思想学会, 2020/3) 193-194頁

宮平望『エアライン入門 逆風で飛翔する両翼』(大学教育出版, 2021)189頁

 →月刊エアライン編集部『AIRLINE 月刊エアライン 2021/12 vol.510』(イカロス, 2021) 159頁

拙著に対する主な推薦 (推薦を書いてくださった先生方、本当にありがとうございます!)=

・宮平望『ジョン・マクマレー研究 キリスト教と政治・社会・宗教』(新教出版社, 2017/8) 231頁
 →エディンバラ大学 デイヴィッド・ファガソン教授(
David Fergusson, OBE MA BD DPhil DD FBA FRSE, Professor of Divinity and Principal of New College, University of Edinburgh)

 「人間の関係論的視点に基づくジョン・マクマレーの人間哲学は、私たちが社会的、宗教的、政治的生活を理解するための重要な役割を担い続けている。彼の著作に対する本書の忍耐深く鋭敏な解説は、マクマレーの思想の様々な要素を明示し、それらがいかに新しく活用されうるかを指し示している。宮平博士の素晴らしい研究は、新たな聞き手の中にマクマレー自身の研究に対する興味を確かに引き起こすだろう。」

 →オックスフォード大学 アリスター・E・マクグラス教授(Alister E. McGrath, MA DPhil DD DLitt FRSA, Andreas Idreos Professor of Science and Religion University of Oxford)

 「長期間の閑却の後、今やスコットランドの哲学者であり神学者であるジョン・マクマレーの著作に対する新たな関心が湧き起こってきている。宮平博士のこの重要な研究は、キリスト教徒の生活と思索を結び付けながら神学の論述と議論を深めるマクマレーの方法を解き明かす。大いに推薦されるべき書である。」

 →トリニティー大学 フランク・カークパトリック名誉教授(Frank Kirkpatrick, MA PhD, Ellsworth Morton Tracy Lecturer and Professor of Religion, EmeritusTrinity College, Hartford, Connecticut)

 「宮平望教授は、イギリスの哲学者であった故ジョン・マクマレーの思想に関する見事な本を著した。宮平氏の網羅的で深い知識に基づく研究は、マクマレー自身の研究の広さを反映しているだけでなく、印象に残るほどの正確さと繊細さを伴っている。宮平氏がマクマレーに対する研究の増大しつつある領域を活用している点こそ、読者には特に重要になってくるだろう。」
 →ヨーク・セントジョン大学 エスター・マッキントッシュ博士(Dr Esther McIntosh, BD(Hons), PhD, Director of Theology and Religious Studies, Senior Lecturer in Religion, Philosophy and EthicsSchool of Humanities, Religion and Philosophy, York St. John University)

 「本書において宮平望博士は、ジョン・マクマレーの思想の明快な解説を読者に提示している。ここで提示されているのは、最新のマクマレー研究に対する評価であり、さらにマクマレーの思想をその生涯と実践の中に位置づける試みでもある。また、本書はマクマレーの出版された著作に基づいて諸概念の徹底的、網羅的な解釈を注意深く整然と展開する。特に現代の我々に資する点は、国家間の境界や人間間の恐怖を克服する人間的関係に対するマクマレーの強調である。この人間的関係は、教理や教義に対する信念を超える社会的行動としての信仰や宗教に対する理解によって実現される。本書の結論では驚くべき展開が見られ、マクマレーとの対話の相手としてアリスター・マクグラスが紹介される。両者共に観念論者ではなく実在論者であるが、マクグラスが神学を受容するのに対してマクマレーは神学を拒絶するからである。本書を通してマクマレーの思想に対する宮平博士の好意的評価は明白であり、現代神学への妥当性も浮き彫りにされている。特に、三位一体論神学と通底するマクマレーの人間関係論は、現代の神学者のために実りある議論の機会を提供する。マクマレーの成果を日本の読者に極めて理解し易い形で提示する研究として本書を勧めたい。」
 

今後の研究予定=

[組織神学シリーズ]

・『神の和の神学 ○○論』・・・

学会=
・  日本基督教学会会員。2010年~2013年と2014年~2016年までは日本基督教学会学会誌『日本の神学』編集委員。2024年~2025年まで日本基督教学会賞選考委員。
・  比較思想学会会員
・  ホウィットフィールド神学・倫理学・教育学研究会(The Whitefield Institute, Research and Communication in Theology, Ethics and Education)会員。現在、カービー・レイン・キリスト教倫理学研究会(Kirby Laing Institute for Christian Ethics)に改称
・  ティンダル聖書学・神学研究会(Tyndale Fellowship for Biblical & Theological Research)会員

<推薦図書>
 

『本のひろば』(財団法人キリスト教文書センター)における書評(財団法人キリスト教文書センターより許可を得て転載)


『本のひろば 増刊号2007/3 キリスト教書 読者アンケート特集』(財団法人キリスト教文書センター, 2007/3)p.36より許可を得て転載。
1.土肥昭夫『思想の杜 日本プロテスタント・キリスト教史より』新教出版社、二〇〇六年、三五七〇円
 本書は日本人の精神構造、キリスト教史上の先達、牧師交代に関する検証、戦争責任問題や天皇制に対する教会の取り組み、日韓キリスト教関係史などに焦点を当てつつ、日本のキリスト教会の歴史的課題を提示しています。特に日本人の精神構造を論じた最初の三章は簡潔かつ明快な筆致で、現代日本のあらゆる問題に通底する深層を明示しています。
2.アリスター・マクグラス『信仰の旅路 たましいの故郷への道』いのちのことば社、二〇〇三年、一四七〇円
 イギリスの著名な神学者によるこの信仰入門書は、本書を通して読者が信仰の旅路を歩むことができるような章立てになっています。心の準備ができずに信仰の旅路へと踏み出せないでいる人に対して著者は、旅への最良の準備は旅に出てからでないとできないことを教えてくれます。
3.森和久『誕生日』すぐ書房、二〇〇一年、一七三二円
 学生時代から奔放な生き方をしていたOLが行き詰まり、再出発を願っていた矢先、修道院に入り、さらに凄絶な現実に取り囲まれます。しかし、彼女はそこで自己発見的に、自分が生まれてきたことの意味を自分を愛する人、自分を必要とする人のみが握っていることを知り、十字架の意味も新たに教えられるという小説です。

『本のひろば 増刊号2008/3 キリスト教書 「私の選んだ3冊」』(財団法人キリスト教文書センター, 2008/3)pp.37f.より許可を得て転載。
1.カール・バルト(吉永正義訳)『イスカリオテのユダ KDセミナーブック』新教出版社、一九九七年、二一〇〇円
 近年、ユダ論が注目される中で再読しておきたい名著です。本書は、ユダがイエスを「裏切る」とは、正しくは「引き渡す」であって最小限の敵対行為であること、使徒パウロが十字架のイエスを言わば世界へ引き渡す前の、ユダによる引き渡しという使徒職は無駄ではなかったこと、しかしユダの罪は軽減されないこと、ユダの自殺は自らが自らの審判者となって神の自由な審判を待たなかったことなどを指摘し、救いに関して再考を促します。
2.古屋安雄『神の国とキリスト教』教文館、二〇〇七年、二三一〇円
 著者によると、イエスは神の国の到来を告知したが、戦時中の日本の教会は賀川豊彦や羽仁もと子や矢内原忠雄などの例外を除いて、「神国日本」との衝突を回避するために神の国を説かなくなったとのことです。だからこそ、キリスト教の停滞している日本の教会や神学の将来的課題は神の国の復権であると提言します。そして、神の国を説いたイエスの結末が十字架刑であることを考慮しつつも、この復権の敢行を本書は勧めます。
3.小田垣雅也『コミュニケーションと宗教』創文社、二〇〇六年、二九四〇円
 本書は、特に近代以降の西洋思想の袋小路状態に対する代替案を東洋思想などの中に探し求めると同時に、著者自身の見解も明示する点で極めて啓発的な論集です。神学のバルト捕囚を越えて聖霊の神学へ向かい、ラーナーの「無記名のキリスト者」論に対して「無記名の仏教徒」論を提案し、無神論者の否神論的性格を指摘し、本来信仰は不信仰との、絶対は相対との、自己は他者との関係性の中にあるという二重性の構造を解明しています。

 

『本のひろば 増刊号2009 キリスト教書 「私の選んだ3冊」』(財団法人キリスト教文書センター, 2009/4)p.48.より許可を得て転載。
 1.水垣渉『初期キリスト教とその霊性』日本キリスト改革派教会西部中会文書委員会、二〇〇八年、一五〇〇円
 新約時代と連続した四世紀までの初期キリスト教は、全キリスト教界が継承する基本的キリスト教であり、著名な教父学者によるこの霊性の研究は、現代の教会においても参考になるでしょう。前半はキリスト者が選民と異邦人に対して普遍的な次元を持つ第三の民として家庭を中心に信仰を証しし広めていった過程を明示し、後半は神の前にへりくだった「わたし」が霊性の根源である聖書の学びを深める必要性を説いています。
2.南原繁研究会編『平和か戦争か 南原繁の学問と思想』tobe 出版、二〇〇八年、一五〇〇円
 第4回南原繁シンポジウムの成果の一部である本書は、南原の思想を発展的に継承して、国家や民族への忠誠を相対化する世界公民の生き方を指し示す坂本義和氏や、南原とバルトの思想には「待ちつつ急ぎつつ」という神の主権性と人間の責任を両立させた終末論的な平和思想が通底していることを明示した宮田光雄氏の論考他、南原の真善美義の文化価値と彼を取り巻く人物・状況の各側面の紹介を含む充実した一冊です。
3.寺園喜基『西南の風』梓書院、二〇〇八年、二〇〇〇円
  本書は二十一世紀の世界に貢献する学院を目指す西南学院第十七代院長による学院月報巻頭言や式辞などを収録するエッセー集です。バルト神学研究者としても知られる著者は、戦前の日本人バルト研究者がバルトのナチズム批判を日本の脈絡に適用して日本国家主義に抵抗運動を展開することがなかったのに対して、靖国問題にも取り組み、本書では特に戦時中の軍国主義教育、現今の新教育基本法の愛国心問題を批判し、心の教育を見直しています。

 

<推薦図書>
宮平望(西南学院大学教授)(2010年)
1.宮田光雄『ベツレヘムの星 聖書的象徴による黙想』新教出版社、二〇〇五年、一九〇〇円
 本書は星、光、道、火、水、船、木、家、鳩、魚、手、足、目といった聖書的象徴が日常生活に根差していると同時に、この世界の創造主に着目させる超越的役割を果たしている点を明示しています。この広範な視点は、「私はある」という神の名前を「燃える柴」と関連させて燃え尽きない栄光の火の神であるとする解釈や、イエスの受洗時に下った鳩が神の保護や栄光を象徴する御翼との関連で神性をも表すという洞察も導き出しています。
2.小田垣雅也『憧憬の神学 キリスト教と現代思想』創文社、二〇〇三年、二八〇〇円
 西洋思想が取り扱ってこなかった絶対無の神学を近現代思想と対話しつつ提唱する著者は、対象化されない水準を持つ絶対無の中で神学を実践する立場を憧憬の神学とも呼んでいます。それは絶対無が自己を無化し続けるように、憧憬も更なる憧憬を求める無限の営為だからです。こうした動的な理解は静的な神理解がはらむ権威主義を克服し、自分を無にしたイエスの十字架刑や信仰義認論、ニヒリズムにも新たな視点を提示しています。
3.小野寺功『絶対無と神 京都学派の哲学』春風社、二〇〇二年、四六〇〇円
 キリスト教神学の日本的展開を試みてきた著者は、西田哲学の「無の場所」を聖霊の働く場所と把握し、日本における三位一体論の再構築と聖霊神学の確立に果敢に取り組んでいます。その際に本書は西洋哲学の伝統を踏まえた上で、鈴木大拙、田辺元、波多野精一、西谷啓治、逢坂元吉郎、鈴木亨、滝沢克己、北森嘉蔵、武藤一雄らとの批判的対話を深めつつ、無からの創造を初めとして神学の基本的枠組みを再検討しています。

 

<投稿記事>

「給水分け合う選手に学んだ」『朝日新聞(朝刊) 声 2008/12/16 10版』(朝日新聞社,2008/12), p.15.(朝日新聞社より許可を得て転載) 
 先日、第62回福岡国際マラソン選手権大会を近くの沿道で見ました。最初はただ選手たちに声援を送るつもりでした。しかし、見ているうちに一つのことに目がくぎ付けになりました。
 選手たちは給水所で手にした飲料水を口に含むと、そのボトルを左右の走者にも差し出していたのです。そして、それを受け取った選手は飲むと、また別の人に回していました。
 マラソンは1秒を争う競走です。沿道で配られていた朝日新聞のパンフレット(よかとこ版)によると、給水所は駆け引きのポイントで、そこで水を取るか取らないかで順位が変わることもあれば、かつては給水に失敗した選手に水を手渡した選手が優勝をさらわれたこともあるそうです。
 今回の選手たちもそういうことは知っているでしょう。それにもかかわらず、お互いに飲料水を分け合うさっそうとした雄姿にしばらく魅せられました。むしろ、学ぶことが多かったのはこちらの方でした。
 その選手たちに再び声援を送るべく、私はゴールのある平和台陸上競技場に向けて自分の足を走らせました。

<名著解読>
* J. D. Salinger, The Catcher in the Rye, (Penguin Books, 2010, originally in 1945-1946) = J. D. サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』(2016/01/14)

 J. D. サリンジャーの著した The Catcher in the Rye はしばしば、上記のように『ライ麦畑でつかまえて』と訳されているが(「The Catcher in the Rye」, 松田徳一郎(編)『リーダーズ英和辞典 第二版』, p.400)、直訳すれば、それは『ライ麦の中の捕手(The Catcher in the Rye)』である。さらに、この「キャッチャー(catcher)」は、文字どおり、「捕手、捕まえる人」という意味であるが、この「キャッチャー(catcher)」という語句に内包され、示唆されている「キャッチ(catch)」という語句には、同様にして「捕まえる人」だけでなく、「捕まえたもの」、「いとしいもの、望ましいもの」、「落とし穴」、「発芽」などの意味もあることを考慮すると(「catch」, 松田徳一郎(編)『リーダーズ英和辞典 第二版』, p.400)、本書は次のようにも解釈できるだろう。

 まず第一に重要なのは、ニューヨークのセントラルパークの池が氷結した時に、そこの「アヒル」が一体どこに行くのかと主人公ホールデン・コールフィールド(Holden Caulfield)が何度も案じている点である(原書, 2章pp.13f., 9章p.65, 12章p.88, 20章p.166)。この懸念は、何度も放校処分を食らったホールデンがこの冬、学校の寮から果たしてどこに帰れるのだろうかという不安を投影している。家では厳格な父親が待っているからである。
 第二に、この本の題名に反映されている「ライ麦畑」はホールデンの生きている社会を、その「捕手」はホールデン自身を象徴している。ホールデン自身の描く理想的将来像は、次の有名な箇所である。
 「とにかく僕は、その広いライ麦畑でちびっ子たちがみんなで何かのゲームを楽しんでいるのをいつも思い描いてる。数千ものちびっ子たち以外に誰もいない。そう、大人は誰も、僕以外には。で、僕は狂った崖っぷちに立って、何をしなくちゃいけないかっていうと、崖を超えちゃいそうな一人ひとりを捕まえるんだ。もし、ちびっ子たちが走ったまま、どこに向かっているかが見えてないなら、僕がどこからともなく出て来て捕まえるってことだよ。それを一日中やってみたいな。ぼくはただ、そのライ麦畑みたいな所で捕まえる役になりたいんだよ」(原書, 22章,p,186.ここで「捕まえる役」と訳した原語はcatcher)。
 確かに、この現実の社会には、いかさまな大人の仕掛けた数々の「落とし穴(catch)」があるが、そんな所でもホールデンは妹フィービーの中に「いとしさ(catch)」を見いだしている(cf.原書,22章,p.185, 25章,p.228)。かつてそこには、ホールデンのかわいがっていた弟アリーもいた。ホールデンはこの世に何度も吐き気を示しているが、妹と幼年で病死した弟のことは確かに心深く受け入れている。おそらくホールデンは、妹を「捕まえる(catch)」ことはできたが、弟は「捕まえる(catch)」ことができなかったと悔やんでいるのだろう。だからこそ、ライ麦畑の「発芽(catch)」のように将来に満ちた妹や弟に対する純真な思い入れは深い。比喩的に言えば、妹という「発芽」を捕まえることはできたが、弟という「発芽」は崖から落としてしまったのである。たとえホールデンのせいでないにせよ。
 ちなみに、ホールデンが、スイス・チーズのサンドイッチと「麦芽乳(malted)」で腹を満たしたという記述は(原書,18章,p.146)、読者に「麦」から「ライ麦」を連想させつつ、例えば「ライ麦」から作られた「ライ麦パン(黒パン)」に言及しないことも、この世界を象徴するライ麦畑に対する全般的な嫌悪を示していると言えるだろう。
 そして第三に、終盤25章で頂点をなす妹への思慕は、吐き気の出る「ファック(fuck)」に満ちたこの世に対する浄化作用ともいうべき対抗基軸をなしている。それは、「たとえ、百万年かけても、世界中にある『ファック・ユー』の落書きの半分も消せないよ」(原書,25章,p.217)とあるように、この世の性欲関係と対極をなすのが、性的関係の起こり得ない妹への思慕だからである(少なくとも本書の前提において)。死んだ弟に対する思慕も同種のものである。また、この世の「ファック(fuck)」に対する吐き気の代わりに、ホールデンがしばしば「ネッキング(necking)」に言及することも(原書,13章,pp.100f.)、この世の性欲を完遂できないもどかしさを表している。
 最後に、主人公ホールデン・コールフィールド(Holden Caulfield)の名前について一言述べておこう。ホールデン(Holden)とは、「捕らえられている人」(古英語)を意味し、コールフィールド(Caulfield)とは、「辺り(field)」が「胎児の羊膜(caul)」で覆われている人を示唆している(ちなみに、かつてこの「羊膜」は幸福をもたらすものと考えられていた。「caul」, 松田徳一郎[編]『リーダーズ英和辞典 第二版』, p.404)。つまり、ホールデンは、権力に「捕らえられた」人や会社を弁護して金を巻き上げる父親のような弁護士とは正反対に、自らは半分大人でありつつも、童心に「捕らえられ(Holden)」、覆われつつ、子どもを助けることで今を生きたいのである。
 否定されているのは伝統的な父親像だけではない。当時・当地のキリスト教世界観も峻拒されている。天地万物の創造という開始と、この世の終末という終結のある<直線的>な伝統的キリスト教世界観は、妹フィービーの乗っている回転木馬が回り続けるという<円環的>運動に対するホールデンの賞賛によって(原書,25章,p.229)、確かに否定され続けている。ホールデンの愛してやまない妹「フィービー(Phoebe)」のその名前が、キリスト教にとっての異教の神である月の女神ポイベーに由来することもこのことを裏打ちしている。そして、「フィービー」がギリシャ語の「フォイボス(明るい)」に由来しているように、フィービーは夜の月明かりとして、ホールデンの漆黒の心に小さく強く輝いていたのである。夭逝したアリーと共に。

本書の特徴的な表現

1章 ‘Anyway, it was December and all, and it was cold as a witch’s teat, especially on top of that stupid hill.’ (原書, p.4) = 「とにかく、12月やら何やらで、魔女の乳首くらい冷えてたよ。特にあのひどい丘の上は」(私訳)。

1章 ‘when I leave a place I like to know I’m leaving it. If you don’t, you feel even worse.’ (原書, p,4) =「ある所を去る時は、そこを去っているということを覚えておきたいんだ。そうでないと、もっとつらくなるだろ」(私訳)。
12章 ‘Horwitz said and drove off like a bat out of hell.’ (原書, p.90) = 「ホーウィッツはそう言って、地獄から出てきたコウモリのように飛び出して行った」(私訳)。
13章 ‘a woman’s body is like a violin and all, and … it takes a terrific musician to play it right.’ (原書, p.101) = 「女の体はバイオリンのようなもので、それを正しく弾くには素晴らしい音楽家が必要なんだ」(私訳)。
14章 ‘I’d bet a thousand bucks that Jesus never sent old Judas to Hell.’ (原書, p.108) = 「ぼくは、イエスがあのユダを地獄には決して送らなかったというほうに1000ドル賭けるよ」(私訳)。
16章 ‘Certain things they should stay the way they are.’ (原書, p.132) = 「ある種のもの、それらって、そのままであるべきなんだ」(私訳)。この Certain things they は文法的には破格ですが、少年の書く英語として記されているのでしょう。同様にして、while I was laying there smoking (原書, p,109)という表現も、本来は while I was lying there smoking とすべきですね。
23章 ‘You can’t teach somebody how to really dance.’ (原書, p.189) = 「本当の 踊り方って、誰かに教えられるもんじゃないんだ」(私訳)。
25章 ‘Then what she did ― it damn near killed me ― she reached in my coat pocket and took out my red hunting hat and put it on my head.’ (原書, p.228) = 「で、妹が何をしたかっていうと ― いちっころにやられるところだったよ ― 僕のコートのポケットに手を入れると、赤いハンティング帽を取り出して、僕の頭にかぶせたんだ」(私訳)。[注:ここは雨が降り出した時の妹の反応]

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